劉備は本当に人格者?戦が下手?実情に迫る

三国志の三英傑については曹操の記事で挙げましたが今回は劉備玄徳です。
三国志演義では曹操が悪者ので劉備が正義というイメージになっています。
そういう描かれ方をしていますからね。

横山光輝の三国志ではかっこい描かれ方をしててそんなに悪いイメージはありませんでした。
リアリストって感じですかね。
正確には漢王室復興を夢見る劉備とそれを簒奪する曹操の戦いってところでしょうかね。

戦では劉備は負けまくっていましたので判官贔屓というのがあるかもしれません。
曹操は強過ぎましたからね。
劉備は民を大事にする人格者で義理と人情がある。

そのイメージですが果たしてどうでしょうか?
まずは劉備の生涯について触れていきます。

劉備の生涯

劉備玄徳

劉備(字は玄徳)は、161年、涿郡涿県楼桑里で生まれます。
現在の河北省保定市涿州市だそうです。
祖父は劉弘で州郡の官吏を勤めていましたが早くに亡くなったため、母と筵を売って貧しい生活をしていました。

ここは三国志演義でも史実でも一緒ですね。
175年になると劉備は盧植の元で学問を学びます。
兄弟子に公孫瓚がいました。

劉備は学問にはあまり興味がなく、賭け事や闘犬などで遊んでいたそうです。
そこは史実と違いますね。
中山の豪商・張世平と蘇双は劉備を見てただものではないと思い、大金を与えました。

184年、黄巾の乱が発生すると劉備は関羽・張飛・簡雍・田豫とともに義勇軍を結成して活躍します。
中山国安熹県の尉に任じられますが郡の督郵(監察官の職)とトラブルを起こして官職を捨てて逃亡。

191年、劉備は兄弟子ある公孫瓚の元へ身を寄せます。
劉備は青州刺史の田楷の下、袁紹と戦って功績を挙げて平原の相に任じられます。
その後、陶謙が曹操に攻められてると救援に向かいます。

曹操は呂布に本拠地の大半を占領されて撤退します。
その後、劉備は陶謙から徐州を譲り受けますが曹操に敗退した呂布を迎え入れますが乗っ取られてしまいます。
一旦は和睦するものの結局攻めれてしまって曹操の元へ逃れます。

198年、呂布の攻められて逃亡して曹操を頼る。
曹操は劉備を迎え入れて呂布を攻めます。
呂布は捕えられて処刑されます。

劉備は曹操とともに許昌に入り、献帝から左将軍に任ぜられます。
しかし、劉備と曹操の良好な関係は長く続きませんでした。
献帝より任ぜられた董承が曹操暗殺計画を立てて劉備もその同志に引き入られます。

劉備は計画が実行される前に袁術討伐ために徐州に移りました。
袁術の進路を塞ぎ、袁術は病死。
劉備は徐州刺史の車冑を殺して独立。

怒った曹操は劉岱・王忠を派遣しますが劉備は撃退。
曹操が自ら出陣すると戦わずに逃亡して袁紹の元へ
劉備の妻子は捕えられて関羽は降伏します。

袁紹と曹操が戦っている間は劉備は曹操の後方を掻き回しますが曹仁に阻まれて失敗。
そのころに関羽が戻っています。
官渡の戦いで袁紹が曹操に敗れて曹操が攻めてくると戦わずに逃げて荊州の劉表を頼ります。

劉表の元にいる間は平和な日々が続きます。
207年に諸葛孔明を三顧の礼で迎え入れます。
劉表が没し、次男の劉琮が跡を継ぎますが曹操に降伏してしまいます。

そうなると劉備の居場所はなくなります。
孔明は劉琮を攻撃することを提案しますが忍びないと却下。
曹操が攻めてくると江陵へ逃亡するものの、住民が劉備を慕ってついてきたため、追いつかれてしまいます。

散々に打ち破られますが張飛や趙雲の奮戦、関羽が劉琦の援軍を引き連れてきたおかげで江夏へ逃れることに成功。
208年、孔明を派遣して孫権と同盟を結ぶことに成功して赤壁に戦いで曹操を破りました。
赤壁の戦い後は、荊州南郡を占拠することに成功。

211年には、益州の劉璋が張魯に攻められると援軍を劉備に要請。
劉備は援軍に入ると見せかけて劉璋を攻めました。
苦戦しつつ、215年に劉璋は劉備に降伏しました。

しかし、益州を得ると孫権との関係が冷え込んでいきます。
孫権の主張は荊州は借りているということだったのです。
劉備は返還する気はありません。

ついに荊州を守る関羽と孫権の部下の呂蒙と武力衝突が起きますが曹操が張魯を降伏させて漢中を占拠したことによって劉備は孫権と和睦します。
荊州は分割統治となったのです。
219年、劉備は定軍山の戦いで夏侯淵を討ち取り、曹操も撃破。
漢中王に就任します。

さらに関羽が呼応して樊城の曹仁を攻めて曹操は遷都を考えるほど怯えます。
ここまでが劉備の絶頂でした。
曹操と孫権が共同で孫権を攻めて関羽を敗死させます。

結果、荊州を全て孫権に奪われてしまうのです。
220年、曹操の後を継いだ曹丕が献帝から禅譲されて魏の皇帝になります。
劉備はそれに対抗して蜀を建国して皇帝になります。

222年、劉備が最初に行った政策は呉へ遠征でした。
張飛が暗殺されて下手人は呉へ逃亡。
完全に劉備は頭に血が昇っており、孔明や趙雲の諌めも聞かずに自ら軍を率いて出陣します。
夷陵の戦いです。

始めは優勢でしたが陸遜に奇襲されて大敗。
蜀の国力を半減させるほどの敗北だったと言われています。
223年、劉備は白帝城に逃れて失意のまま病死します。

63歳でした。

劉備の戦歴

劉備は戦が下手なのか?
まずは戦歴を並べてみます。

189年の黄巾の乱で功績を上げて安熹県の尉に任命される
1勝0敗
何進大将軍が派遣した毌丘毅の部下として敵軍と戦って功績を上げて下密県の丞に任じられる。
2勝0敗

191年、敵軍に敗れて公孫瓚を頼る。
2勝1敗
同年、青州刺史の田楷を助けて袁紹軍と戦って功績を上げて平原の相に任ぜられる。
3勝1敗

194年、袁術と対峙中に呂布に本拠地を奪われる。
3勝2敗
同年、呂布と和睦するもの、兵1万を集めたことに不信感を抱かれて攻められて曹操の元へ敗走。
3勝3敗

197年、呂布の同盟相手である楊奉・韓暹が徐州を荒らすが撃破して討ち取る。
4勝3敗

198年、呂布が攻めてきて曹操の援軍を要請、半年籠城を続けるもの敗れて妻子が囚われて曹操を頼る。
4勝4敗
同年、曹操と共闘して呂布を敗死させる
5勝4敗

同年、袁術討伐に向かい、袁紹との合流を阻止。
袁術は病死するが曹操の元へ戻らずに独立を画策。
下邳を根拠地とし、徐州刺史の車冑を殺す。
曹操が派遣した劉岱・王忠の両将を撃破。
6勝4敗

曹操自ら攻めてくると戦わずに逃亡して袁紹を頼る。
6勝5敗

200年??、曹操が袁紹と対峙している間に汝南で元黄巾軍の劉辟が曹操に反旗を翻す。
劉備は袁紹に任ぜられて合流して数県を攻め取る。
多くの県が曹操に背いて劉備らに味方。
7勝5敗
同年、曹操は曹仁を派遣して劉備を撃破。
7勝6敗

同年、再び袁紹に任ぜられて汝南を攻撃して曹操が派遣した蔡陽を討ち取る。
8勝6敗

203年劉表の元へいた劉備は博望坡の戦いで夏侯惇・于禁を撃破。
9勝6敗

207年、劉表が没し、劉琮が後をつぐと曹操に降伏したため、劉備は居場所がなくなる。
逃亡するも曹操軍に追いついかれて命からがら逃れる。
9勝7敗

208年、赤壁の戦いで孫権と共闘して曹操を破る。
10勝7敗
同年、荊州南部を占拠して荊州牧となる。
11勝7敗

212年から214年。
蜀の劉璋を破って益州を得る。
劉備の入蜀
12勝7敗

219年、曹操が漢中を占拠して長安へ戻ると夏侯淵・張郃を攻めてこれらを撃破し、夏侯淵を討ち取る。
定軍山の戦い。
13勝7敗
その後、曹操自ら攻めてくるも守りに徹して曹操軍に大打撃を与えて曹操は撤退。
14勝7敗
221年から222年、夷陵の戦いで呉の陸遜に大敗。
白帝城で病没する。
14勝8敗

劉備は戦が上手いか?

戦績を見るとなかなかいいと思います。
敗れている相手で曹操と呂布と曹仁、陸遜ですが曹操に関しましてはほとんど戦わずに逃亡しているので不戦敗と言った方がいいかもしれません。

まともに戦ったことがほとんどないのです。
漢中攻防戦では初めてまともにぶつかりますが見事に撃退しています。
呂布に関しましては曹操も苦戦を強いられています。

曹仁は守りの武将で周瑜には敗れていますが負傷させており、関羽に攻められた時は見事に守り抜いて敗死させています。

陸遜に関してはいうまでもありませんね。
夷陵の戦いは三国志演義では75万の兵で攻めていますが実際は4万で呉軍が5万なのです。
実際は無謀な戦いだったのですが初めのうちは優勢に戦いを進めていました。
相手はあの陸遜でしたからね。

あと注目が博望の戦いです。
三国志演義では孔明が火攻めで夏侯惇と李典を撃退していますがこれは創作で孔明が陣営に加わる前の話なのです。

劉表に命じられて夏侯惇と李典、于禁を攻めて火攻めで見事に撃退しています。
しかも4000対120000と大きな戦力の開きがありました。
劉備も撤退していますので引き分けにはなりますが戦力差を考えると勝ちですね。
これが孔明の功績に変えられてしまったのは残念です。

呂布を敗死させたことと、赤壁の戦いに関しては劉備の力ではないのでカウントすべきではなかったかもしれませんが一応勝ちとして入れさせていただきました。
劉備の能力については曹操は高く評価しています。

「今、この天下に英雄と申せる者は、貴公とこのわしのみだ。本初(袁紹)如きでは不足よ」
これは三国志演義でもありましたね。
劉備はこれで曹操に警戒されてはまずいと雷を恐れるふりをしました。

また、赤壁の戦いに敗れて退却する際に「劉備はわしと同じくらいの人物だが計略を考えつくのが遅い」と評価しています。
その通りで退却する曹操に焼き討ちをしましたがその頃はすでに曹操は退却を済ませていました。

陸遜も「劉備は歴戦の武将で、 開戦当初は慎重に計略を立てていたので隙がなかったが今は油断している」と評価。
正面切って戦おうとしなかったのです。

曹操、袁紹、公孫瓚、陶謙、劉表などが劉備を客将として迎え入れたのも優秀な傭兵軍団として見ていたのでそうね。
最初は負け戦が多かったですが寄せ集めの兵が多かったのもありますね。

次に劉備は人格者かについても触れていきますね。

劉備は人格者に見えるけど実際は?

三国志演義を見ると劉備は母思い、住民思いの人格者というイメージがあります。
美談エピソードはかなりあります。
曹操が悪玉で劉備が善玉というのが定説となっています。

判官贔屓というもあるでしょう。
曹操や孫権に比べるとかなり苦労したのは確かです。
曹操は曹騰の財力がかなり大きいですし、孫権は父孫堅と兄孫策が地盤を固めたのが大きいです。

それに比べると劉備は裸一貫です。
前漢の景帝の第6子劉勝の末裔を自認している劉備ですが実は証拠がないのです。
劉勝は優秀な人物ではなかったらしく、子供も100人いたそうなのでその末裔だとしても弱いのですよね。

それでもむしろ売りから皇帝まで成り上がることができたのは優秀なのはもちろん、人徳があったのは間違いありません。
それではエピソードをいくつか上げてます。

最愛の母から劉勝の末裔だと告げれる?

三国志演義では母に飲ませる茶を買うために商業船に行った帰りに黄巾軍に襲われて
応戦しますが返り討ちに合ってしまいます。

そこで持っている宝剣もお茶も差し出しますがそこで張飛が助けに入って取り戻します。
お礼に宝剣を張飛にあげてしまいます。
家に帰ると母にお茶を渡すと母に宝剣を差し出したことを叱責されます。

そこでその宝剣が先祖代々の剣であり、劉勝の末裔であることを告げられるのです。
しかし、そのエピソードは創作である可能性が高いのです。
実際は、実家に生えてる大きな桑の木を見た幼い劉備は「大きくなったら天子の乗っている馬車に乗るんだ」と言ったそうです。

母と叔父に滅多なことをいうものじゃない!命を狙われるぞと咎められているのです。
ちなみに天子の馬車は桑の木で出来てたそうです。
蒼天航路でもそれと似たようなエピソードがありますね。

督郵にブチ切れる

劉備は史実でも黄巾族との戦いで戦功を挙げています。
現に安熹県の尉に任命されています。
今でいう警察署長です。

むしろ売りだったことを考えると出世と言えるでしょう。
三国志演義だと劉備のおかげで安熹県は治安がよかったそうです。
ある日、督郵が視察にきました。

劉備を田舎者と罵倒したり、酒と女を求めました。
それを拒んでいると督郵は嘘の報告をして劉備を失脚させようと企みます。
それを知った張飛は腹を立てて彼を縛り上げて鞭打ったのです。

劉備は止めますが最終的には督郵を殴って官職を捨てて逃亡します。
これは三国志演義の話であり、実際はこうです。
督郵が視察に来た際に面会を断られた腹いせに屋敷に押し入ってそ縛りあげて杖で200回叩き、官の印綬を督郵の首にかけて官を捨てて逃亡。

当時は郡は勅命により軍功によって官吏となった人間の罷免の審議を行っていたらしく、劉備はその中に自分が入っているのではないかと疑ったのです。
それで督郵に面会を申し入れましたが仮病を使って拒否をしたため、腹を立てたというものです。

督郵が気の毒ですね。

呂布からこいつこそ信用ならんやつだぞ?と言われる

三国志の序盤でキーポイントとなったのは呂布ですね。
裏切りを何度も繰り返しているので嫌う人は多いですね。
敵に回すと厄介であり、曹操も本拠地を奪われて危機を迎えました。

そんな呂布も結局は曹操に敗れて劉備を頼るのですが受け入れているのです。
演義では関羽も張飛も迎え入れるのを反対してますが劉備は困ってる人を見捨てることはできないと迎え入れます。

結局袁術と対峙している間に本拠地を乗っ取られます。
逃亡するかと思いきや呂布の元へ戻ってるのです。
お人好しに見えますが劉備は呂布を利用したのだと思われます。

呂布を置いておければ袁術にも曹操にも攻められる心配がないという考えかもしれません。
結局呂布は曹操が倒すのですが処刑する際に曹操はその武勇を惜しんで思い止まっていました。
すると劉備が丁原・董卓を裏切った事をお忘れかと意見を言います。
曹操はなるほどとうなづきます。
呂布は、「この大耳野郎(劉備は耳が大きかった)!命を助けてやったのを忘れたか!こいつこそ信用ならんやつだぞ?」と吠えます。

お前がいうか?と思われがちですが劉備も背信と裏切りを繰り返してるのですよね。

住民を見捨てない劉備

劉備の行動で一番感動したのが長坂の戦いでしょう。
劉琮が降伏したことによって劉備は撤退を余儀なくされました。
その際に住民が劉備を慕ってついてきました。

住民を連れての撤退は当然スピードが遅いので曹操軍に追いつかれてしまいます。
何度の住民は置いていくように進言されてのですが劉備は却下していました。
「大事を成すには人をもって大本としなければならない。私についてきた人たちを捨てるのは忍びない」

これは演義も史実でも同様のようです。
案の定、追いつかれてしまって妻子は離れ離れになりました。
張飛と趙雲の奮戦と劉琦の援軍によって凌ぐことができました。

これに関しては、こんな意見もあります。
その前に新野城を焼き討ちをしており、無理やり住民を連れて行った。
劉備は住民を盾にした上に妻子も捨てて逃亡した。
それを見た徐庶は劉備に失望して曹操へ走った。

ただ、それに関しては疑問です。
それなら住民はついてこないのでは?と思います。
それに住民を連れての行軍はスピードが鈍るのでそれなら最初から連れて行かないでしょう。
劉備が妻子を捨てるのは今始まったことじゃありませんしね。

背信と裏切りを続けた劉備?

裏切り者の代名詞といえば呂布や関羽を見殺しにして魏へ降って曹丕が死去すると再び蜀へ寝返ろうとした孟達ですが劉備もかなり裏切りが多いです。
最初の裏切りは公孫瓚から陶謙への鞍替えですね。

陶謙が曹操に攻められている際に、公孫瓚は劉備を援軍として出しているのです。
陶謙は劉備を気に入ってそのまま引き抜きました。
しかし、当時は袁紹・曹操が同盟を結んでいてそれと対立していたの袁術と公孫瓚でした。
陶謙は袁術側でした。
なので劉備が陶謙の元へいくのは容認していた可能性があります。

次に、曹操への反抗。

劉備は呂布に攻められて敗走して曹操の元へ行きます。
呂布が倒されてると曹操と袁紹が対峙してる間に独立をします。
献帝から曹操討伐計画の同士に引き込まれたのもあるでしょうね。
断った断ったら自分も暗殺の対象にされてしまう。
独立したのはそういった事情もあると思います。
結局曹操が自ら軍を率いてくると劉備は妻子や部下を捨てて袁紹の元へ逃亡。

袁紹に関しては裏切りに入るかは疑問です。
三国志演義では官渡の戦いが始まる前に劉表の元へ逃亡していますが袁紹の命を受けて曹操の後方を撹乱しているのです。

官渡の戦いで袁紹が敗れてると劉備は曹操が行軍してくる前に逃亡しています。
なので袁紹に関しては該当しませんね。

最後に劉璋です。
劉備の入蜀と言って劉璋に援軍を要請されて助けるふりをして乗っ取り。
これも裏切りに見えますがそもそも孔明の天下三分の計に益州は入っていたのでいずれは攻めるつもりだったと思います。

それに法正や張松などはすでに劉璋を見限っていましたからね。

関羽と張飛の弔い合戦

劉備の義理堅いエピソードといえば夷陵の戦いです。
関羽が魏領の樊城を攻撃中に呉の孫権に背後を突かれて敗死してしています。
そればかりか荊州を失ってしまうのです。

劉備は当然烈火の如く怒ります。
援軍を断った養子である劉封を処刑し、呉討伐軍を起こします。
趙雲を始め、重臣はみな反対します。

先に討伐すべきは曹操であって孫権ではありません。
魏を倒せば呉は降伏します。
他に黄権も「蜀軍の船は長江の流れに従って下るので、進むのはたやすくても退くのは困難です」と進言しています。

孔明は反対はしませんでしたが「法正」がいれば止められただろうと嘆いてます。
遠征の準備をしてる中、今度は張飛が部下に寝首をかかれてその部下は呉へ逃亡します。
これでもう決定的になります。

蜀の皇帝となって最初に行ったのが自ら指揮をとった仇討ちだったのです。
結局大敗し、白帝城でそのまま病没してしまいます。
これは劉備なりの義理の果たし方だと思います。

皇帝としては失格ですが・・・・

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