現在大河ドラマは光る君へがやっていますね。
次の次の大河ドラマは何かご存じでしょうか?
それは豊臣兄弟です。
主人公は天下人となった豊臣秀吉の弟である豊臣秀長となります。
秀長は秀吉よりも先に亡くなってしまいましたが優れた弟だったと言われています。
もし、秀長がもっと生きていたら秀次事件も、家康の天下もなかったというのは有名な話です。
大河ドラマでも登場することが多いです。
記憶に新しいのはどうする家康ですね。
他にも多数出演していますね。
ここで秀長について詳しく解説!と行きたいところですがここではその他にいた優れた弟たちについて挙げていきます。
真田昌幸も憧れた?武田信玄の弟信繁
やはり優れた弟で外せないのは甲斐の虎と恐れられた武田信玄の弟信繁でしょう。
共通してるのは彼も兄より先に亡くなっています。
信玄の父信虎は信繁を気に入っていて廃嫡して跡を継がせようとしました。
戦国武将だと兄弟で殺し合うことは珍しくありませんでした。
例を挙げると織田信長と信行、伊達政宗と小次郎、毛利元就と相合元綱。
いずれも弟を殺してしまってるのです。
小次郎に関しましては病死説があります。
しかし、信繁は信玄を慕っており、自分が当主になろうとはしませんでした。
信玄は信虎を追放しますがその際も協力しています。
それでも父のことも慕っており、追放後も連絡を取り合っていたと言われています。
信玄には弟が何人かいました。
その中で信繁は際立っていました。
信虎追放後、信玄の片腕として各地を転戦しました。
最後は第4次川中島の戦いで討ち死にしてしまいます。
「典厩」(てんきゅう」と呼ばれており、多くの方に慕われています。
彼は知勇を兼ね備えた名将でしたがそれだけでなく、人望もあったそうです。
現に真田昌幸は自分の息子に信繁と名前をつけています。
有名な真田幸村のことです。
もし、彼が長生きしていたら武田家の運命は変わっていたかもしれません。
まず、武田家滅亡の遠因となった義信事件は起きなかったでしょう。
調整役と信玄と義信の確執を抑えられることができたかもしれません。
また、義信は反乱に巻き込まれた説もあります。
それも未然に防げたかもしれません。
もう一つは信玄亡き後です。
ひょっとすると勝頼でななく、人望がある信繁が継いでいた可能性があります。
諏訪家の人間であった勝頼よりも上手く家臣をまとめていたでしょう。
仮に勝頼当主となっていた場合、長篠の戦いでの敗戦はなかったかもしれません。
勝頼は信繁の意見でしたら聞いていたでしょう。
その戦いすら起きなかった可能性があります。
信玄は3年は内政重視せよという遺言を残していましたらから全く戦わなかったことはありませんが長篠のような無理な戦はしなかったと思います。
ただし、それで信長に勝てるかと言ったらそれは疑問です。
信玄が生きていたとしても直接対決では厳しかったでしょう。
国力の差が違いすぎるのです。
武田家が滅亡してしまったのは勝頼の外交力のなさ、国衆をまとめ切ることができなかったことが原因ではありますがそれ以前に信玄の代に敵を作りすぎてしまったのです。
また、勝頼は元々嫡男ではありませんでしたので国衆をまとめるのは難しかったと思います。
もし、信繁が生きていたらうまく担いでいたでしょう。
滅亡は免れたとしてもその人望で織田、もしくは徳川の分国として生きながらえた可能性はありますね。
戦では負けなしだった源義経
源頼朝(みなもとのよりとも)は、日本の平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将であり、鎌倉幕府の初代将軍です。
彼は、平氏政権に対抗して挙兵し、最終的に日本初の武家政権を樹立しました。
1159年の平治の乱で父・源義朝が敗死し、頼朝は平清盛に捕えられました。しかし、清盛の継母の嘆願により命を助けられ、伊豆に配流されました。
そこから挙兵をして最終的には平家を滅ぼして鎌倉幕府を設立しました。
しかし、平家を滅ぼした功労者が源義経なのです。
日本の平安時代末期に活躍した伝説的な武将であり、源頼朝の異母弟です。
1159年(平治元年)に京都で生まれました。
幼名は牛若丸です。
母は常盤御前です。
平治の乱で父が敗れた後、母と共に京都で隠れ住むことを余儀なくされました。
幼少期に鞍馬寺に預けられ、そこで修行生活を送りました。
この時期に剣術や兵法を学び、その後、鞍馬山を出て奥州藤原氏の庇護を受けました。
1180年、兄・頼朝が挙兵した際、義経もこれに呼応して参加しました。彼は平氏打倒に大いに貢献し、頼朝の元で活躍することになります。
源義経(みなもとのよしつね)は、日本の平安時代末期に活躍した伝説的な武将であり、源頼朝の異母弟です。
彼の生涯は勇壮な戦いと悲劇的な最期で知られています。
中でも一ノ谷の戦いでの彼の活躍は平氏の勢力を大きく削ぐ結果となり、源氏の勝利に大きく貢献しました。
義経は僅かな手勢を率いて六甲山を夜間に越え、一ノ谷の背後にある急斜面(逆落とし)を駆け下りて奇襲をかけました。
この奇襲は平氏にとって完全な不意打ちとなり、大混乱を引き起こしました。
最も義経の功績だけでなく、総大将である兄範頼は正面攻撃も無視はできないのですが挟み撃ちにされた平氏軍は多くの武将が戦死しました。
平氏はこの戦いで多くの兵力を失い、西日本での支配力を大きく削がれました。
この戦いが平家滅亡の決定打となったでしょう。
壇ノ浦の戦いでは、艦隊戦で最初は源氏軍が劣勢だったのですが潮の流れが変わると戦況は逆転しました。
義経は敵船に飛び移って戦うという大胆な戦術をとり、平氏の士気をくじきました。
また、平氏の軍船を一斉に襲撃し、大混乱を引き起こしました。
平氏は次第に劣勢となり、戦意を喪失しました。最終的に平氏の多くの武将が討ち死にし、生き残った者たちは海に身を投じました。
壇ノ浦の戦いで平氏は壊滅的な打撃を受け、その支配は完全に終わりました。
これにより平安時代が終焉を迎えました。
安徳天皇とその祖母である二位の尼も入水し、三種の神器も海に沈んでしまったことが兄頼朝を激怒させることになります。
義経は頼朝の許可なしに朝廷から官位を受け取ったことが一因となり、兄から実質追放されます。
さらに頼朝から追討令を受け、京都を離れ各地を転々としました。
最終的に奥州藤原氏を頼りましたが、藤原泰衡によって裏切られ、1189年(文治5年)に衣川で自害しました。
この時、義経はわずか31歳でした。
彼は武勇には優れていましたが洞察力は並以下だったと言えるでしょう。
朝廷から官位を受け取る際も頼朝に伺いを立てたからすべきでした。
また、頼朝の重臣たちともうまくいかないことが多かったと言われています。
特に、梶原景時との不和が有名です。景時は義経の行動を頼朝に報告し、義経に対する頼朝の不信を助長しました。
そこらへんの根回しをしていれば命を失うことはなかったでしょう。
最も強すぎたのが一番の原因かもしれませんが義経がいなければ鎌倉幕府は成立しなかったと思います。