曹操は悪玉?実情に迫る

曹操というと三国志の3英傑の一人になります。
魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備です。
蜀に関しましては諸葛亮の方が際立っていますがそこはまた別の機会にします。

その3人の中で曹操は別格と言えます。
曹操は裸一貫で立ち上げをして魏建国の基礎を作りました。
孫権は、魏に次ぐ巨大国を建国したのは確かですが父の孫堅、兄の孫策の後を継いで領土拡大しました。
劉備は曹操と同じく裸一貫で立ち上げましたが諸葛亮を迎えるまではあっちこっちを渡り歩く客将に過ぎませんでした。

それを考えると二人は曹操に比べると見劣りします。
しかし、曹操は劉備に対して「わしと同じくらいの人物だが計略を考えつくのが遅い」。
孫権に対しては「息子を持つなら孫権のような人物が良い」とそれぞれ評価しています。

二人も英傑であることは間違いありませんが曹操は別格なのです。
しかし、曹操は三国志では悪者扱いされています。
実際どうだったのか?

それについて解説していきます。

曹操の生涯についてざっくりと解説していきます。
これは史実ベースにします。

曹操の生い立ち

曹操(字は孟徳)は155年に生まれます。
出身は沛国譙県(現在の安徽省亳州市)と言われています。
曹家はでその祖先は高祖劉邦に仕え功臣曹参です。

祖父曹騰は宦官であり、賄賂で大尉まで上り詰めたと言われていますが人望のある人物だったようです。
宦官は去勢されているため、実子はなく、曹嵩を養子に迎えています。
その子が曹操なのです。
なので血縁関係はありません。

曹操の先祖は農民であったとも、夏侯一族であったとも言われてます。
そこからざっくりといきますね。

曹操の生涯

黄巾の乱(184年)が起きると騎都尉となって活躍します。

霊帝が崩御すると弁皇子と協皇子の後継者争いが起きます。
結果弁派が勝利しますが義父である何進が宦官に暗殺されると宮廷は混乱します。
そこに董卓が乗り込んで弁を廃して協皇子(献帝)を立てます。

董卓の専横が始めると曹操は洛陽から逃げ出します。
ちなみにのちのライバルとなる袁紹も同じように洛陽を脱します。
曹操は袁紹を盟主に董卓打倒連合を結成します。

しかし、連合とは名ばかりでお互いを牽制して積極的に攻撃しようとしません。
曹操は董卓軍の徐栄と戦いますが大敗。
董卓は都の洛陽を焼き払って長安に遷都した後に連合軍は解散します。

都落ちした後は黄巾軍の残党と戦ってその兵を併合。
その中から厳選して「青州兵」と名付けます。
そこから曹操が躍進しますが父曹嵩が陶謙の兵に殺される事件が起きます。

怒った曹操は仇討ちとして陶謙を攻めます。
それは苛烈で「男女数十万人」を殺し、鶏や犬すらいなくなったと言います。
しかし、留守を呂布に攻められて兗州の大半を失って撤退を余儀なくされます。
幸い留守を守っていた荀彧と程昱のおかげで守り切っています

その後呂布とは何度も戦って苦戦はしましたが劉備と共同で敗死させます。
そのころは都落ちした献帝を迎えており、それが強みなります。
呂布を破ると劉備が徐州で挙兵します。

先鋒隊こそ敗れますが曹操本体が到着すると劉備は逃走します。
その後、幼馴染であり、同盟関係にあった袁紹と対立することになります。
雌雄を決する官渡の戦いでは袁紹に押されて撤退を考えますが重臣荀彧の励ましもあって大勝。

袁紹が存命中は積極的に攻めることはありませんでしたが袁譚と袁尚の後継者争いに乗じて攻め滅ぼして208年に河北を統一。
その勢いで荊州を攻めて劉琮を降伏させて劉備を敗走させます。

しかし、赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に敗れてしまいます。
三国志演義では大敗のように見えますが主だった重臣が戦死したとかなかったので損害としては大きくなかったのかもしれません。

孫権の家臣黄蓋の偽りの降伏による奇襲もそうですが疫病が流行っていたのが敗因だったと言われています。
この敗戦が曹操の威厳を落とし、劉備と孫権の躍進を産んだのは間違いありません。

211年、漢中の張魯討伐軍を起こすと馬超と韓遂が反乱を起こし、自ら軍を派遣しました。
討ち取られそうになるど苦戦はしますが鎮圧。
212年に曹操は魏公に就きます。
215年には張魯を降伏させて漢中を平定。

216年には魏公から魏王になります。
219年に益州を平定した劉備が北上して漢中へ上ってきます。
陽平関の戦いです。

曹操は自ら軍を率いますが先鋒の夏侯淵が劉備に敗れて戦死。
曹操は劉備を攻めますが守りが硬く、病もあって撤退。
同年、劉備の義弟関羽が荊州から北上して樊城を攻めます。

関羽の快進撃に曹操は動揺して遷都を考えますが呉の孫権に関羽を攻めさせて敗死させることに成功します。
呉から関羽の首が送られた翌年の220年に曹操は病没。
享年66歳でした。

曹操は悪玉か?

さてここからが本題ですね。
曹操が悪玉かについてです。
そういう扱いをされるのはいくつかエピソードがあるのです。
中には史実かどうかわからないのもあります。

順番に挙げていきます。

命の恩人を殺害??

曹操が悪玉扱いされる最初のエピソードは董卓暗殺に失敗して逃走する時です。
手配書が周り、捕縛されますが陳宮によって助けられて一緒に逃走します。
その際に、呂伯奢という親戚の家を頼ります。

曹操をもてなしを受けますががそこで事件が起きます。
呂伯奢が留守の時に召使いが夕食の準備をしようと猪を捌こうとします。
そのやりとりを聞いて自分が殺されると勘違いした曹操は召使い皆殺しにしますがすぐに早とちりと気がつきます。

呂伯奢が戻る前に去りますがその道中ででくわしてしまい、殺してしまいます。
陳宮はそのことを責めますが「私が他人を裏切ったとしても他人が私を裏切ることは許さない」と返されると呆れて曹操の元を去ってしまいました。

しかし、尋ねたときは呂伯奢は不在での家族と召使いたちが曹操の金品を強奪しようとしたから殺したとかという記述もあります。
それに陳宮が曹操から離れるのはまだ先です。

創作かどうかはわかりませんがそれだけで曹操を悪玉扱いとするには無理があると思います。

徐州の住民を虐殺

やはり一番曹操の評価を下げてしまったのはこの事件です。
曹操は徐州の陶謙の部下に父親と弟を殺されています。
怒って仇討ちに徐州を何度も攻めました。

仇討ちもありますが徐州を手に入れたいのもあったでしょう。
曹操は、多くの城を落としましたが同時に住民の虐殺も行っています。
数十万人の住民が殺されて犬や鳥もいなくなったとも言います。

死体を川に投げ込んだで流れが止まったという話もあります。
ただし、兵士が勝手に行ったという説もあって曹操はそれを知らなかったという説もあります。
いずれにしろ兵士の統率が取れてない曹操の責任は免れないでしょう。

ちなみにこの時期に陳宮が呂布を担いで曹操の本拠地である兗州の大半を占領しています。
曹操が信頼していた張邈も一緒に背いています。
兗州のほとんどが呂布についており、この虐殺行為が影響しているのは間違いありません。

呂布なんかという声がありそうですが史実でも評判が悪かった董卓を倒しているのに比べると曹操の虐殺行為に不信感を抱くのは当然です。

また、魯粛と孔明は徐州出身でその時期に南へ逃れています。
虐殺が原因か、その後に起きた飢饉が原因かはわかりません。
また、陶謙は三国志演義では人格者として扱われていますが実際はそうでもないようです。
実際、その頃は曹操と陶謙は敵対関係でしたからね。

長年尽くした荀彧を死に追いやる

個人的には一番インパクトが残っているが荀彧事件です。
荀彧は袁紹を見限って曹操に仕えた際に「我が子房」と言って歓迎しています。
荀彧の功績は大きいです。

まず、徐州の陶謙を攻めている間に陳宮と呂布に本拠地を攻撃された際に、張邈が「呂布殿が曹操殿の援軍にやってきたから城を開けてくれ」と言います。
荀彧は謀叛を見破って城を開けませんでした。

また、呂布に呼応して大半の勢力が曹操に背きましたが荀彧は夏侯惇と連携して見事に防いでいます。
荀彧がいなかったら兗州を失い、下手すると曹操の命運が尽きていた可能性もありました。

次の功績は長安から洛陽に逃れてきた献帝を迎えることを勧めたことです。
献帝は拠り所がなく、諸侯は迎えようとしませんでした。
荀彧の薦めによって献帝を迎えましたが有利に働きます。

当時、曹操はそれほど強い勢力ではありませんでしたし、袁紹や袁術のように家柄がいいわけじゃありません。
袁紹は逆に献帝を迎えるように薦められても拒否していました。
彼の場合は迎えなくても家柄がいいのでする必要がなかったのです。

献帝を迎えることによってうまく操って勅命を出したりしていました。

他にも功績としては袁紹との戦いの時です。
官渡の戦いでは後方支援に回っていましたが曹操が撤退を考えて荀彧に相談しましたが袁紹軍は必ず内分裂が起ると励ましました。
その通りに、官渡の戦いでは袁紹軍は足並みが揃わず、裏切り者まで出る始末でした。
結果、曹操軍が大勝したのです。

荀彧がいなかったら曹操は袁紹に降伏するか、敗死する可能性すらあったのです。
その後の袁紹亡き後の河北統一、荊州へ南征も荀彧の進言を元に行っていたのです。
しかし、その荀彧を死に追いやることになるのです。
212年に曹操は魏公になりました。

就任することに反対の立場だったのが荀彧だったのです。
曹操はその頃はゆくゆくは皇帝になることを考えていたと言われてます。
荀彧は「皇帝となるにはまだ徳が足らない」と諌めていたようです。

曹操からすれば耳の痛い話でそれから荀彧を冷遇するようになります。
それから荀彧は死去します。
原因は曹操に食べ物を送られて箱を開けてみると生身は空。
荀彧は「お前は用済みだ死ね」と解釈して自殺したとも、憤死したも言われています。

これは創作であったという説もあります。
荀彧の死の翌年に魏公に就任していることを考えると疎ましく思っていたのでは?と私は推測します。
死を賜ったわけではありませんが追いやった可能性は高いです。

曹操の死去後、その廟所には荀彧は祀られませんでした。
それを考えると確執は大きなものであったと考えれますね。
私はこのエピソードが一番ひどいなと思います。

曹操のいいエピソード

悪いエピソードは他に喪に服してる最中なのに未亡人に手を出すというのがあります。
鄒氏が有名で張済の未亡だったのですが曹操は手を出してしまいます。
それに怒った降将張繍に奇襲をされて曹操は嫡男の曹昂、部下の典韋を失ってしまいます。

曹操は人妻や人が気に入った女性が好きで関羽のお気に入りの女性も奪っているくらいです。
とはいえ、英雄色を好むといいますから特段珍しいことはありません。
ここでいいエピソードについて触れていきます。

関羽との友情

関羽といえば三国志で最も人気のある武将に一つですが味方だけなく、敵将にも人気があったのです。
張遼と徐晃は有名ですね。

中でも関羽を高く評価していたのは曹操だったのです。
一時ですが関羽は曹操に仕えています。
曹操と劉備は呂布を討つために共闘関係にありました。

呂布に攻められて救いを求めてきた劉備を優遇しますが呂布を倒すとその関係は一変します。
劉備は反旗を翻して徐州で旗揚げするのです。
曹操の動きは早く、先鋒隊こそ撃退されるものの、自ら赴き、勝てないと悟った劉備は妻子や部下を捨てて敗走します。

関羽は孤立し、劉備は安否不明で劉備の妻子が捕虜になると知ると降服します。
条件として主君が見つかり次第、去ることを許すことでした。
曹操は快く受け入れます。

関羽もその心意気に応えて袁紹との白馬の戦いでは顔良と文醜を討ち取る功績を上げます。
そのころは劉備は袁紹の元におり、それを知ると関羽は曹操の元を去りました。
家臣は追って捕えることを進言しますが曹操は追ってはならぬと通知した上で関羽に直接会って贈り物までするのです。

劉備よ、お前が羨ましいぞという言葉は有名です。
史実でも同様だったことを考えると曹操の男気に惚れそうになりますね。
部下や妻子を捨てて逃げた劉備より曹操の方に仕えたくなります。

219年に関羽が曹操と孫権に挟み撃ちされて敗死するとその首は曹操の元に送られてその翌年に死亡してることを考えると関羽と曹操は敵国同士ながら友情関係があったのだと思います。

張魯・龐徳を厚遇

曹操はやはり器が違うなと感じたのが張魯を征伐した時です。
215年、陽平関の戦いで張魯を破りました。
張魯は逃走しますがその際に財宝を焼き払うべきだという進言がありました。

「国家の物だから」と却下しました。
それを聞いた曹操は大いに感心しました。
おかげで財宝を無傷で漢中を手に入れることができたからです。

張魯は曹操の使者に説得されて家族を連れて降伏しました。
張魯は、鎮南将軍・閬中侯に任じられてその子供たちも取り立てられました。
張魯は五斗米道の創始者ですが布教も許されているのです。

子孫は今も健在だそうです。
もう一人降伏したのが馬超の部下である龐徳です。
馬超と馬岱は蜀へ逃走した後に劉備に降っていますが龐徳は残ってました。

龐徳は馬超と共に曹操を苦しめて討ち死に直前まで追い込んだ名将です。
馬超の子供は処刑されていますが龐徳は厚遇されているのです。
周りは従兄が馬超の元にいましたので疑いましたが曹操は曹仁の配下として重宝しています。

龐徳は関羽に敗れて処刑されています。
その際に降伏を促されれていますが「我は国家の亡霊となったとしても、賊将などにはならん」と拒否しています。

曹操はそれを知って涙したと言います。
このように曹操も義理堅いところがあるのですよね。

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