諸葛亮孔明というと三国志の主人公格の一人です。
三国志演義では前半は劉備が主人公ですが彼が死去すると孔明に交代しています。
孔明が五丈原で病没して物語は終わります。
孔明というと三国志を代表する軍師であります。
竹中半兵衛は今孔明言われています。
三国志だけでなく、世界の歴史の中でも名軍師と言われています。
しかし、実際のところ本当に名軍師なのかは色々議論になっています。
弱かった劉備を皇帝にまでのし上げているのですから孔明が有能があることは間違いないでしょう。
豊臣秀吉が農民から天下人のなれたのも竹中半兵衛・黒田官兵衛という名軍師がいたからです。
彼らの存在がなかったらあそこまで出世はできなかったでしょう。
もちろん劉備も秀吉も実力と度量があったのもありますが・・・・
ただ、三国志で描かれてる軍師像というのはフィクションが多いのです。
実際はどうなのかを考察します。
まずは生涯からですね。
諸葛孔明の生涯
諸葛亮は、現在の山東省にある徐州琅邪郡陽都県(ろうやぐんようとけん)で生まれました。幼い頃に両親を亡くし、叔父に育てられました。
彼は若い頃から優れた知識を持ち、儒学を学び、農村で隠遁生活を送りながら、友人たちと共に学問を深めていました。
兄は諸葛瑾で後に呉に仕えています。
諸葛亮が歴史の舞台に登場するのは、劉備(りゅうび)との出会いからです。
劉備は武勇には優れていましたが本拠地を持つことが出来ずに各地を転々としていました。
最終的に辿り着いたのは荊州でそこで孔明は隠居生活を送っていました。
劉備は賢者として名高い諸葛亮に助けを求め、「三顧の礼」として知られる礼儀を尽くし、三度彼のもとを訪れて軍師に迎えました。
この出会いを通じて、諸葛亮は劉備に仕えることを決意しました。
諸葛亮は、劉備に仕えるとすぐにその才能を発揮しました。最初に劉備に提案したのは天下三分の計です。
当時は曹操が圧倒的に強く、劉備はほとんど戦うことはせず、逃亡していました。
そこで孔明は江東の孫権と同盟を結び、曹操と戦わせてその間に荊州を治めて続けて益州を治めて天下を三分して対抗するというものでした。
孔明は自ら孫権の元へ赴き、説得して同盟に成功。
赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍は曹操を破りました。
曹操からの脅威が去ると彼は荊州(けいしゅう)や益州(えきしゅう)を奪取することを提案し、この戦略は後に成功を収めました。
しかし、関羽が呉の孫権に攻められて討たれて荊州を失陥。
激怒した劉備が仇討ちを称して呉へ遠征すると夷陵の戦いで陸遜の大敗。
これで荊州を完全に失って孔明の天下三分の計は頓挫しました。
白帝城まで撤退した劉備は死期を悟り、孔明に後事を託して死去します。
孔明は何度か北伐を試みますが魏との戦力差は如何ともしがたく、234年に五丈原の戦いの最中に病没します。
北伐失敗の原因
北伐は5回行いましたが成功しませんでした。
これにはいくつかの敗因があります。
大きいのは最初の北伐での失敗です。
一番勝てる可能性が高いのが最初のなのです。
最初の北伐は魏は準備ができておりませんでした。
天水・南安・安定の3郡を降伏させて幸先の良いスタートを切りました。
しかし、街亭の戦いで孔明の愛弟子である馬謖が命令に背いて魏の張郃に破れてしまったことによって蜀軍は撤退を余儀なくされました。
その後四回北伐を行い、互角以上の戦いをするものの、目覚ましい成果を上げることができることができませんでした。
孔明ほどの人物が不甲斐ないと思われますがそもそも北伐自体が勝算が低いものでした。
第一に国力の違いです。
蜀と魏では国力が全然違います。
蜀は四川省のみを有する地方政権に過ぎませんでした。
当時の人口は魏が400万人に対して蜀は100万人に満たなかったのです。
蜀軍が国を挙げて遠征するのたいして魏軍は一軍を派遣するだけで良かったのです。
国力の差は如何ともし難いと思います。
第二に北伐のルートが一箇所しかなかったこと。
天下三分の計は荊州があることが前提でした。
関羽が敗死したことによって荊州を失ってしまいました。
荊州があれば2方面から攻めることができたでしょう。
同時じゃなくてもどちらかは陽動作戦できました。
漢中から長安へ行くには秦嶺山脈を越えないといけませんでした。
2000メートルから3000メートル越えの山脈です。
食料を運搬した上で越えないといけないのですから遠征するだけでも大変なのです。
第三に食料の問題です。
これは遠征と重なりますが遠征自体がかなり過酷なものでしたので食料不足が発生していました。
現に勝利しても兵糧が尽きかけて撤退というのが多かったのです。
運搬方法を工夫したり、屯田兵など行いましたが抜本的改革にはなりませんでした。
第四に人材不足です。
孔明には参謀と言える人材がいませんでした。
街亭の戦いで経験豊富な魏延や呉懿ではなく、馬謖を起用したのは参謀として育てようという意図があったのだと思います。
そもそも丞相が自ら遠征してる時点で蜀には人材がいない言えるでしょう。
もし、法正か龐統生きていたら彼らに任せて自分は成都、もしきは漢中で政務を行いつつ、後方支援をしていたでしょう。
元々そういう役割でしたので・・・・
孔明は軍略が苦手だった?
孔明というと三国志演義では神のような軍略で敵から恐れていました。
呉の周瑜は何度も孔明の才能を恐れて何度も殺そうとし、最終的には自分は遠く及ばないと悟って吐血して病死してしまいました。
司馬懿も五丈原の戦いでは孔明の木像を本物と勘違いして逃走したりしていました。
孔明の初陣である博望の戦いでは火攻めで夏侯惇の大軍を破り、赤壁の戦いでは曹操を火攻めの計で破っていますが実は二つとも脚色されたものなのです。
博望の戦いは孔明が配下になる前の話であり、火攻めを行ったのは劉備なのです。
赤壁の戦いは風を起こしたとか、100万本の矢を得たとかも脚色です。
当然周瑜に命を狙われたというのもありません。
孔明は後方支援が役割だったのです。
ほとんど戦いには参加していません。
益州攻略戦の時に援軍に向かったくらいです。
諸葛亮は何度も北伐(北方への遠征)を行いましたが、いずれも決定的な勝利を得ることができませんでした。
正史三国志の陳寿は孔明は臨機応変な戦いが苦手だったのでは?という疑問を投げかけています。
蜀の軍人魏延は孔明にたいして怯と言って不満を抱いていました。
要するに臆病者ということです。
それには自分の長安急襲作戦が却下されたのもあると思います。
「精鋭5千と兵糧5千石をお与えください子午道を通って10日と経たないうちに長安を落としてみせます」と提案しています。
孔明は危険が多すぎると却下しています。
その作戦に関しては個人的には無謀であったと思います。
子午道を通るのは最短距離といえますがそれでも長安まで400キロもあるのです。
しかも途中は桟道と峻険な山道があります。
10日以内の落とすというのは無理でしょう。
現に魏軍はその道は警戒していました。
仮に長安を落とせたとしても包囲されるのがオチです。
とはいえ孔明の作戦は慎重すぎたといのは否めません。
五丈原の戦いの時に司馬懿はこう評しています。
諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない。
一方で孔明が没して司馬懿が蜀軍が撤退した後の陣を見た時に「孔明は鬼才」と評しています。
結論は、孔明は慎重な作戦を取らざるを得なかったのでしょう。
下手に危険な賭けをすると国家存亡の危機になります。
そもそも北伐と言っても魏を滅ぼす気はなく、専守防衛が目的だったのだと思います。
成果を上げることはできませんでしたが一度も決定的な敗北はしてないのです。
撤退時も追撃してきた王双や、張郃を討ち取っています。
孔明の跡を継いだ(軍事面)姜維も何度も北伐をしていますが段谷の戦いで大敗しており、それが蜀の滅亡に繋がっています。
大国魏相手によく戦ったと言えるでしょう。
孔明の人物眼
孔明が目をかけていた人物といえば馬謖です。
彼を高く評価していました。
劉備死後はそばにおいて南蛮の孟獲を攻略するときは策を求めていました。
心を攻める事を上策とし、城を攻める事を下策とします。また心を屈する戦いを上策と助言し、それが七縦七擒に繋がり、孟獲を屈服させることができたのです。
劉備は、彼は頭は実戦では使えない。軍の指揮を任せてはいけないと釘をさしていました。
孔明はその助言を無視しました。
劉備の不安は的中することになります。
街亭の戦いで先鋒を任された馬謖は孔明の指示を無視して街道でなく、山の上に陣を敷いて張郃に水源を絶たれて大敗を喫してしまいます。
孔明は責任を取らせて馬謖を処刑しました。
泣いて馬謖を斬るで有名です。
実際は敗戦の責任を取ろうとせずに逃亡したために捕らえて処刑したとも言われてます。
また、もう一人楊儀という人物もいて重用していましたが彼も才能はありましたが才能を鼻にかけるところがあり、孔明の政治面での後継者に蒋琬が指名された際は、「なぜわしじゃない・・・こんなことなら魏行けばよかった」と漏らし、怒った劉禅に庶民へ降格させられました。
なので軍事面に関しては見る目がないのかなと感じます。
ちなみに北伐は姜維が行っていますが彼は後継者に指名されたという記述はありません。
しかし、孔明があらかじめ指名してた政治面での後継者。
蒋琬、費禕が生きている間は、国乱れることはなく、姜維の無謀とも言える遠征もありませんでした。
費禕が亡くなると統率が取れなくなり、劉禅は宦官を重用し、国は乱れて魏が攻めてきた際にあっさりと降伏してしまいました。
政治面に関しては見る目があったと言えるでしょう。